たまには料理の話でも。フランス料理と日本料理の違いを考える。

たまには料理の話でも。フランス料理と日本料理の違いを考える。

僕はずっとフランス料理をやっているが、僕の父親は和食の板前だったんです。
なぜ、僕がフランス料理を選んだかというと、実は父も若い時にフランス料理に憧れて独学で勉強していた頃があったらしく、それを僕は中二の時に知って、それからフランス料理を目指すようになりました。父が金沢の料亭で見習いをやってた時に、大阪の万博で初めて見たフランス料理に魅了され、その時なけなしのお金をはたいて分割払い(当時の父の月給は2万5千円で、その本は全8巻で2万円)で買った西洋料理の本を見ながら独学で勉強したらしい。
ただ、当時は金沢にも地元の福井にもフランス料理店など一軒もなく、万博で見たきり本当のフランス料理に触れる機会もなく、その道を諦めたようだ。
そんな父の想いも感じて、中二の僕はフランス料理を選んだのかもしれない。

僕の昔話はいいとして、今日はフランス料理と日本料理の違いを考えてみた。

当然、国が違うのだから文化も違う。だから料理も違うのは当たり前で、そんなこと考えなくても分かることだが、何がどう違うのか言語化してみようと思う。頭の体操だ。

簡単なことから考えてみると、まず食文化における主食について。
フランスはパン(基本的にはバゲット)で日本はご飯だ。
そうなんだけども、僕がフランスにいた時感じたのは、主食のニュアンスがフランスと日本では違うということ。
日本のご飯とおかず(料理)の関係は、ご飯を食べるためにおかずがあるといった感じ。
まさに主食と言われるようにご飯が「主」である。
対してフランスでは、その逆で料理を食べるためにパンがあるという感じだった。
主食であるパンが「主」ではなく料理が「主」のように思えた。

それはおそらく、日本人の食べ方は、ご飯とおかずを口の中に一緒に入れて、口の中でそれらを混ぜて一つの味にするからだろう。だから料理もそのようにできている。一つ一つの料理の味はシンプルで繊細だ。味つけをしていない白いご飯と味付けをしてあるおかずを口の中で混ぜ合わせて調味することで複雑な味わいを作り出すのだ。これを「口内調味」という。
三角食べをしなさいと教育されるのは栄養のバランスというより、交互に味を変えながら食事をすることでこの口内調味を鍛え味覚を発達させているのだと思う。これはかなり高等技術だと思う。

フランスでは料理ひとつひとつがしっかりと味付けされていてそれ単独でも複雑な味わいだ。
だから料理を食べて、食べ終わったら口の中の味をリセットするかのようにパンを食べ次の一口にいく。

この食文化の違いは調理法にも大きな影響があるはずだ。

そこで、もっと文化的なことに踏み込んでみる。
日本料理といえばその代表は京都だろう。
京都の茶屋では、半月の夜は部屋の円窓を中途半端に半分閉める。なぜかというと、夜空に浮かぶ半月と同じく窓も半分閉めることで月の満ち欠けを表すのだという。
こうして風景を「切り取る」ことで「余白」を引き立たせる。
そして、これを「風流」と呼ぶ。
日本人の感性はここまで繊細なのだ。

そもそも四角い壁に丸い窓を作ると必ずそこに余白ができる。
日本美術で言う「書」も白い紙に墨で文字を書くことで余白を楽しむものなのだろう。

この「切り取り」と「余白」の美は日本の食文化でもある。繊細でシンプルな料理をいくつも並べ、味のないご飯と一緒に口の中で調味して自分の味を作り出して楽しむ。ひとつひとつの料理をシンプルに切り取り、余白とも言える白ごはんと一緒に自分の口で楽しむのだ。余白を楽しんでいるのだと思う。

それに対して、西洋の美術は「構築」に美学を求める。
例えば油絵は、白い部分にも白い絵の具をのせるし、色を塗った上にさらに絵の具で色を重ねることもしばしばある。まさに「構築」である。

フランス料理のロジックも「構築」そのものだと思う。
例えば仔牛のポワレを作るとしたら、仔牛を肉と骨に分け、肉は焼いて加熱し、そして骨から出汁をとりソースを仕上げ、最後に焼いた肉にかける。
食材を一度分解してそれぞれを調理し、最後に皿の上で一つの料理に再度「構築」するのがフランス料理の基本的な考え方だからだ。

もうひとつ、僕が父から、日本料理とは「道」である、と教わった。
日本料理は、料理をする姿勢、仕草、立ち振る舞いなどが重要視される。料理を作る「道」、いわゆる過程が最も大事なことなのだと。
そういえば、日本では食事を終えた後に「ご馳走様」と言う。馳走とは、料理の材料をあちこち駆け回って集めてくることで、その苦労に対して「ご馳走様でした」と礼を言うことだ。
日本料理とは、こうしたまな板に食材が乗るところから、それを調理する姿勢も含めて、料理が完成するまでの道すじを大事にする文化なのだと思う。
日本料理は「料理道」なのだ。

フランス料理はそうではない。
包丁を右手で持とうが左手で持とうが、その姿勢も関係ない。あくまでも料理の仕上がりの完成度を求めるから「結果」を重要視する。
そしてフランス料理の調理法は体系化されている。
例えばソースに関していえば、いくつかの基本のソースを学べば、あとは無限にソースのバリエーションが枝分かれしていく仕組みになっている。
そしてガストロノミーと言う言葉に象徴されるようにフランス料理には「哲学」がある。
だから、フランス料理は「料理学」なのだと思う。

「切り取り」や「余白」の美を求める日本料理と「構築」の美学を求めるフランス料理。
その違いは「料理道」と「料理学」ということではないだろうか。

そして、今、その文化が混じり合おうとしている。
この話はまた今度にしよう。

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